情け深い雇い主

3月 27, 2023

The Compassionate Employer
March 27, 2023

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 13:41
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情け深い雇い主のたとえ話は、しばしば、ぶどう園の労働者たちの話とも呼ばれており、これは、神の性質と性格が持つ幾つかの側面を説明するためにイエスがマタイ20章で語られた物語です。その側面とは、救いと、神を愛し神に仕える人たちに対する神の尽きることのない世話と報酬とに如実に表れた、神の愛、恵み、憐れみという側面なのです。

このたとえ話は、イエスが語られた他のたとえ話同様に、「天国は・・のような」という言葉で始まっています。この出だしは、神がどのような方なのか、また、神の国に住み、神の統治に人生を委ねる人たちがどのように物事を見るべきなのかについて、イエスはこれから教えようとしておられるのだと告げています。では、イエスが何と言われているか、見てみましょう。

「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。」(マタイ 20:1)

家の主人という言葉は、聖書の他の訳では、家長、あるいは地主と訳されています。1世紀のパレスチナにおける多くの家長は、近くの土地で農業をしていました。この物語に出て来る家の主人は大きなぶどう園を持っていたので、熟れたぶどうを摘む時のように、急いで作業を終わらせなければならない大切な時期には、余分の人手が必要になりました。

短期で余分の労働者が必要となった主人は、市場に出向きました。そこには、誰かが来て、ほんの一日でも雇ってくれないかと願っている日雇い労働者が集まっていたのです。当時の日雇い労働者の生活は困難なものでした。安定した職はなく、仕事が見つからなければ収入もありません。毎晩家族と顔を合わせる時には、食卓に食べ物を置くだけの収入を持って、喜び勇んで帰って来るか、何も持たずに帰って来るかのいずれかでした。彼らは誰かに雇ってもらうため、自分たちに職がないことが誰からも見てわかるように、町の広場に立ちます。これは屈辱的なことでしたが、家族が生きていくには、誰かに雇われて賃金をもらわなければなりません。日雇い労働者は経済的尺度からいって一番弱い立場にあり、生きていくためにお金が必要だったので、聖書では、その日のうちに労働者に賃金を払うようにと求められているほどです。(申命記 24:14–15)

ぶどう園の主人は、丸一日働いてもらうため、朝早く人を雇いに出かけました。労働者を何人か選び、その日の労働のために払う賃金を交渉しましたが、当時は時計がなかったので、日雇いの労働は日の出から始まり、夕空に一番星が見える時間で終わりました。これで労働時間はだいたい一日12時間となります。

「彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。」(マタイ 20:2) 一日一デナリというのは、当時、一日の労働に対する標準的な賃金であり、高くはないものの、家族を養うには十分でした。

物語は、主人がさらに労働者を雇おうとして市場に戻る場面へと続きます。「それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから。』 そこで、彼らは出かけて行った。」(マタイ 20:3–5)

主人が二度目に市場に行ったのは、午前も半ばの9時頃です。市場に着くと、まだその日に雇われるのを待っている男たちがいました。主人は賃金の交渉をせず、ただ、相当な(公正な)賃銀を払うと言いました。労働者はその言葉を信じていることから、この主人は地域で信頼と尊敬を受けていたように思えます。

「主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。」(マタイ 20:5) 12時頃と3時頃に、主人はまた市場に行って、そのたびにさらに労働者を雇いました。労働に対して払う金額を話し合ったとはどこにも書かれていません。

しばらくして、主人はまた5時に市場に行きます。日があと1時間ほどで沈んでしまうという時間です。「五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか。』 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』」(マタイ 20:6–7)

この男たちがどれほど仕事に切羽詰まっていたか、また誰かに雇ってもらえるのを待って一日中公共の場で立っていたのに、それが徒労に終わりそうだというのがどれほど落胆させられることかは、想像するのみです。この人たちは何が何でも仕事を見つけようとしていたのでしょう。そうでなければ、そんな時間まで市場で待っていたりしなかったでしょうから。もうすぐ手ぶらで家に帰り、家族と顔を合わせなければならなかった時間です。

5時に雇われた労働者がほんの1時間だけ働くのに対して、幾ら受け取るのかは、どこにも書かれていません。おそらく彼らは、どれだけ賃金が少なくてもこの時間から喜んで仕事に行けば、翌日また雇ってもらえるだろうと思ったのかもしれません。まもなく仕事時間は終わり、労働者が賃金を受け取る時間となりました。

「さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい。』」(マタイ 20:8)

当時この話を聞いていた人たちは、管理人に与えられた風変わりな指示について、好奇心をそそられたことでしょう。最後に雇われた人たちに最初に賃金を払い、最初に雇われた人には最後に払うよう指示されたのです。見てわかるように、この順番で賃金を払うことは幾つかの問題を引き起こしました。

「そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。」(マタイ 20:9–10)

一日中働いた人たちは、ほんの1時間しか働いていない人たちが一日分の賃金をもらっているのを見て、自分たちはもっともらえるものと思いました。けれども、彼らも他の全員と同様に1デナリしか受け取りませんでした。この最初に雇われた人たちは、12分の1しか働かなかった人たちが一日分の賃金をもらっているのを見て、それはずるいと思いました。それで、彼らは主人に自分たちがどう思っているかを知らせました。

「もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました。』」(マタイ 20:11–12)

彼らは1時間しか働かなかった人たちと同じ賃金しかもらえず、彼らと同等だと見られたことで異議を唱えました。彼らは、主人は公正ではなく、彼らを不公平に扱っていると非難したのです。その非難を聞いてから、主人はその一人に答えて言いました。「『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。』」(マタイ 20:13)

この「友」という言葉は、ギリシャ語の「ヘタイロス」(hetairos)から翻訳されており、それはマタイ書の他の2つの節でも使われています。一度はある男が礼服を着ずに婚宴の席について追い出された時と、もう一度はイエスがユダを「友」と呼んだ時で、それはユダがイエスを裏切ろうとしていた時でした。(マタイ 22:12, 26:50) つまり、ぶどう園の主人はその男を良い意味で「友」と呼んだのではありません。

主人の質問に対しては、それを肯定するしかありませんでした。1デナリというのは、その労働者たちが一日分の労働に対して同意した金額そのものだったからです。主人はその額をあげたので、約束は守ったわけです。

たとえ話によくあるように、イエスが伝えようとしていた要点は、最後に出てきます。主人がこのように言っている箇所です。「自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。』」(マタイ 20:14–15)

一日中働いた労働者は、主人が困っている人に対して気前よくしているのだという点に気づいていませんでした。彼らは一日の遅い時間に雇われた人たちの幸運を喜ぶことなく、逆に、自分自身に目を留め、雇い主から不公平な扱いをされていると思って、利己的な見方をしていました。

一般的な基準からすると、主人の行動は不公平と見なされるでしょう。しかし、主人は同意した金額を払うという約束を守ったという意味で、公正だったのです。その金額で働くと同意した人たちは、賃金をごまかされたわけではありません。自分が最初に賃金をもらって、他の人が幾らもらったかを知らなかったなら、懐に一日分の賃金を入れて、家に戻って堂々と家族に顔を合わせていたことでしょう。

しかし、他の労働者たちはどうなのでしょう。彼らにも養うべき家族がいます。一日中働いたわけではないので、一日分の賃金をもらうには値しません。けれども、主人の気前良さにより、彼らは自分に値しないものをもらったのです。主人は公正であり、同時に憐れみ深くもあったというわけです。

このたとえ話は、神がどのような方であるかを物語っています。神は公正なる方であり、約束を守られます。また、憐れみ深い方でもあります。憐れみ深くなることは、公平さとは全くの別物です。憐れみ深さとは、その人が稼いだ分やその人が受けるに値する分をきっちりと与えることではありません。そうではなく、愛の行為です。値しない人に与えることであり、神の愛と恵みと救いは、まさにそういうものです。

神は人間の考える公平さに制限されてはいません。もしそうだとしたなら、救いの望みはなく、罪のゆるしもないでしょう。私たちが受けるにふさわしいものだけが与えられるとしたなら、私たちは皆、滅びに定められます。しかしそうではなく、一日分の賃金に値しない労働者たちのように、私たちは、救いを通して、神の寛大さ、憐れみ、恵み、恩寵を受けているのです。

私の見方では、このたとえ話は、救いへの神の呼びかけを見事に描いています。召されたり、機会を与えられたりするのが人生の始めの方であるという人もいれば、それがもっと後であったり、あるいは死の床においてという人もいます。神はこの主人のように、何度も市場に足を運んで、そこに誰がいるか、誰が準備ができていて首を長くして待っているかを見られるのです。そして、その人が救いにもたらされるのが早くても遅くても、全員が同じ救いを受け取ります。

人がいつクリスチャンとしての生涯や奉仕を始めたかに関わらず、彼らは報酬を受けます。このたとえ話では、神は公正であられると同時にとても気前の良い方であるのがわかります。「後で来た人たち」は、思っていたよりはるかに多く受け取ったのです。日中の暑い中で汗水流して働いた人たちは、神の御手から正当な報酬を受け取ります。神はご自身のもとに来る人たち全員を、公平かつ寛大に扱われるでしょう。

私たちは、一人ひとりがその行動ゆえにではなく、神が神であられるがゆえに、神から愛され、受け入れられていると悟って、大いに喜ぶべきです。神は私たちのわざのゆえではなく、神の愛情深い恵みゆえに、私たちを救われました。それは私たちの努力によるものではなく、神の恵みによるのです。私たちのうち誰一人として、努力によって神の愛や祝福や報酬を獲得できる者はいません。私たちは皆、寛大で憐れみ深い父なる神から、私たちが受けるに値するよりもはるかに多く与えられています。そしてできる時はいつでも、他の人たちと接する上で、神の愛と憐れみに倣うべく、自分たちにできることは何でもすべきなのです。

2014年3月初版 2023年3月に改訂・再版 朗読:ルーベン・ルチェフスキー

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