イースター: なぜ復活が重要なのか

4月 6, 2023

Easter—Why the Resurrection Matters
April 6, 2023

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間:12:12
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イースター(復活祭)は、私たちのキリスト教信仰においてもっとも重要な出来事であるイエスの復活を祝う日です。なぜそれほど重要なのでしょうか。それは、使徒パウロが強調しているように、復活がなかったとしたら、私たちの信仰は無益なものとなるからです。(1 コリント 15:17) 復活がないとしたら、私たちは贖われてはおらず、今なお自分の罪の責任を負わないといけなくなります。復活がないとしたら、私たちの信仰は虚しいものであるし、他の人に証をするときにも神に反する証を立てていることになります。(1 コリント 15:14–15) 神がイエスを死からよみがえらされたからこそ、私たちは救われているのだとわかるのです。

イエスが死からよみがえられたという事実こそ、ご自身がメシアであり神であることについてイエスが主張されていたことを立証したのです。イエスが死からよみがえられなかったとしたら、1世紀に出現したユダヤ人で、自分はメシアであると主張したものの、結局はメシアのふりをしていただけの人たち、メシアになりそこねた人たちの仲間入りをしていたことでしょう。(参照:使徒行伝 5:36–37)

メシアについての当時の考え方は、国外の抑圧者から神の民を救い出し、回復されたダビデの王国で王として君臨するために、神から塗油された人というものでした。イエスは、ユダヤ人指導者たちから偽メシアであると見なされ、拒絶されました。指導者たちの目には、イエスが、自分はメシアだと主張する多くの人たちの一人に過ぎなかったわけです。イエスが死からよみがえらなかったとしたら、たしかに彼らの考えたとおりだったでしょう。イエスの弟子たちも、おそらく家に戻って以前の仕事につき、自分たちは愚かにもだまされていたのだと考えたことでしょう。

しかし、神はイエスを死からよみがえらされ、それが全てを変えました。神はイエスの復活によって、イエスがご自身について語られたことが真実だったという証拠を与えられたのです。イエスが私たちのために死なれ、そして死からよみがえられたという事実は、イエスが実に、旧約聖書の随所で予告されたメシアであり、神の御子であって、父と同等の者であるであることを示しています。

復活の後、イエスはご自身の権威について、語られました。「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。』」(マタイ 28:18) あの初めてのイースターの朝、イエスが死からよみがえられたのは、ご自身の語っておられた権威を証明するものだったのです。

旧約聖書の随所に、イスラエルを導く者、神がダビデや他の者達に与えられた預言を成就する者が現れることが記されています。それらの預言には、この預言者であり王である者がユダ族出身であること、ダビデの家系から出ること、ベツレヘムという町で生まれること、永遠に続く国を治めることが書かれています。また、この人物は「塗油された者」つまりメシアであり、人々の罪を自分の身に負って苦しみを味わう僕であり、「われわれの正義である救い主」と呼ばれる王であるとされています。1

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。(イザヤ 53:4–6)

ユダヤ人が何十年ものあいだバビロンで捕囚生活を送り、その後もギリシャやローマといった大国に支配されたことで、「メシア」という言葉は、旧約聖書の預言を成就してイスラエルの独立を回復するとされる人を指して使われるようになりました。イエスの時代のユダヤ人は、メシアとは政治的指導者、戦う王であって、ローマの抑圧からユダヤ人を救い出す者であると考えていました。

イエスの時代にイスラエルを治めていたローマ人は、いかなる反乱もぬかりなく鎮め、メシアと思しき者を根絶してきました。そのような危険があったため、イエスは活動の初期の頃、ご自身がメシアであると公に語ることはあまりされませんでした。イスラエルにいるときは、ご自身がメシアであると直接語ることは滅多になかったものの、サマリヤや、イスラエルの領外にいるときには、そうされることがありました。(ヨハネ 4:25–26)

イエスは、注目を集めたくなかったので、癒しを与えた人に、そのことを他の人に話さないようにと言われたこともよくあります。(ルカ 5:12–14) さもなければ、ユダヤ人の民族主義的願望をかきたてる者と見なされたかもしれないし、ローマ人は、誰であれ大衆に好かれ、メシアだと見なされる可能性のある者、つまりローマの支配を脅かす者には目を光らせていたのです。

奇跡的に5千人を食べさせた後、イエスは人々が自分を王にしようとしているのがわかり、群衆から離れられました。そんなことになれば、まだその時ではないというのに、ローマ人の怒りをあまりにも早く引き起こしてしまうからです。「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ 6:15)

活動をされているあいだ、イエスは、メシアとは人々を解放するために戦う王なのだと皆に信じられているような者ではなく、メシアには苦しみ、拒絶、屈辱を味わうという使命もあるのだと理解させようとしておられました。これは、一番近く従ってきた者も含め、皆にとって理解し難いことでした。

イエスの先駆けとなって主の道を備えたバプテスマのヨハネでさえ、イエスが本当に「きたるべきかた」、約束されたメシアであるのかどうか尋ねてきました。イエスがなさっておられると人から聞いたことは、ヨハネがメシアに期待していたこととは、かけ離れていたからです。イエスはそれに対する答えとして、ご自身がなさっていることは、メシアに関してイザヤが預言しているイザヤ書35章と61章の成就なのだと指摘されました。

さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。」 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」(マタイ 11:2–5)

イエスは、活動の初期の頃に同じ箇所を読み聞かせて、その聖句はイエスにあって成就した、と言われました。

「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである。」…イエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。(ルカ 4:18–19, 21)

イエスの活動が終わりに差しかかった頃、主はピリポ・カイザリヤ(ガリラヤ湖の北にある重要なローマの都市で、異教徒のシリヤ人やギリシャ人が住んでいた)の地方に行かれました。その際、人々はイエスのことを誰だと言っているのかと弟子たちにお尋ねになりました。弟子たちの答えによれば、バプテスマのヨハネだと言う者もあれば、エリヤだとか、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もいるとのことでした。主がそのような預言者のひとりだと人々が言っているのは、旧約聖書に書かれている来るべき偉大な預言者を期待していたからです。

そこでイエスが、弟子たちはどう思っているのかお尋ねになったところ、ペテロはこのように答えました。「『あなたこそ、生ける神の子キリストです。』 すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。』」(マタイ 16:15–17)

それから8日ほどたち、イエスは3人の弟子を連れて山に登り、変容されました。「すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。」(ルカ 9:28–31) モーセとエリヤは律法と預言者を代表しており、彼らが現れたのは、イエスがメシアであることを旧約聖書が証ししていることを表しています。

また、イエスは裁判にかけられた時に、キリストであるのかと尋ねられます。「大祭司は再び聞きただして言った、『あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか。』 イエスは言われた、『わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう。』」(マルコ 14:61–62)

この答えで、大祭司はイエスが死刑宣告を受けるべきだと確信しました。メシアであると主張したため、ユダヤ人の指導者たちはイエスをピラトのもとで裁いてもらうことができました。メシアはローマの支配を脅かすものであるため、自称メシアはローマ政府によって処刑されていたからです。

イエスは、誕生の際に天使たちからメシアと呼ばれていました。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ 2:11) また、死に際して、ピラトからもそう呼ばれました。「それではキリスト[メシア]といわれるイエスは、どうしたらよいか。」(マタイ 27:22)

福音書のあちこちで、イエスはご自身がメシアであることを明言し、人からキリスト(メシア)と呼ばれ、残酷にも十字架にかけられて、命を落とされました。ユダヤ人の指導者もピラトも、イエスはその死によって偽メシアだと証明されると考えていました。ところが、逆に復活によって、イエスは真実を語っておられたことが証明されたのです。

神はイエスを死からよみがえらせることで、イエスこそが聖書の中で予告されていた方であること、私たちの苦しみを負い、悲しみをにない、私たちの不義のために砕かれ、私たちに平安を与えた方、メシアであり、「主はわれわれの正義」ととなえられる方であることを明らかにしてくださったのです。

復活のおかげで、私たちは救いを確信することができ、また現代においてもキリストで満たされた人生を送れるし、永遠に神と共に生きるという栄誉にあずかれるのです。

初版は2014年4月  2023年4月に改訂・再版  朗読:ルーベン・ルチェフスキー


1 参照:申命記 18:18; サムエル下 7:12–13; イザヤ 11:1–2; ミカ 5:2,4; エレミヤ 23:5–6

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