望みを抱いて休息する

7月 9, 2020

Resting in Hope
July 9, 2020

イエスからの言葉

オーディオ所要時間:10:08
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どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。 —ローマ15:13

「主にあって休む」、これは一体どういう意味だろう。人によって思い浮かべるイメージは違うかもしれないが、何よりも、わたしにあって休むとは、あらゆる心配や思い煩いを祈りによってわたしに委ね、その荷を自分の肩に負おうとしないことだ。

わたしにあって休むとは、深い信頼と愛の行為だ。それは動詞、つまり行動である。なぜなら、自分の生まれながらの能力で物事を解決しようとするのではなく、意識的にわたしを信頼する努力を払わなければならないからだ。これは常に簡単にできることではない。わたしにあって休むというのは、あなたに関するすべてのことを、わたしが知る最善の方法で対処し、最終的に最大の益をもたらすと知って、全き信仰をもって心配や懸念をわたしに委ねることだ。

自分を幼い子供として思い浮かべてみなさい。その子は最も安全で安心できる場所とは、愛する親の腕の中にくるまることだと知っている。この子は、その腕がいつも自分の下にあって支えてくれると信じて、そこでぐっすりと眠っている。それと同じように、わたしに一日を委ねるなら、あなたはいつだってその日に必要な強さを得る。その秘訣は、一日をわたしに与えるという、その単純な依存の行為にある。

疲れていて、もう一歩も踏み出せない、あと一つだってニーズや要求に応えられないと感じているだろうか。わたしは知っているし、理解している。わたしは、あらゆる点であなたと同じようなことを味わい、人間的な限界を体験してきた。[1] わたしはいつだって憐れみをもってあなたを見る。そして、進み続けるのに必要な力を与える。

祈りが答えられていないように思えるのだろうか? わたしが本当に気にかけ、耳を傾けているかどうか、疑問に思っているのだろうか? これらは、すべてのわが子たちが問う質問であり、信仰を強めるためにそれぞれが経験しなければならないテストだ。困難に直面したことがなく、嵐を切り抜ける必要がなかったなら、わたしへの信仰の深さと信念は確かなものにはならないだろう。風や雨や人生の火を通り抜け、それでもなお、わたしに従うという決意を固めたときこそ、あなたの信仰は純金となる。

わたしは決して楽な生活を約束したのではない。そうではなく、あなたを決して置き去りにしないと約束した。わたしは、あなたがこの世の人々に愛されるとは決して言わなかったが、あなたをわが子として受け入れると約束した。人生に苦労はないとは決して言わなかったが、わたしの力によって何事でも行うことができる、また、わたしを待ち望む者は新たなる力を得ると約束した。[2]

ポジティブな視点

わたしは、あなたが他の人や周囲の状況を、良い面や可能性を見る目で見ることができるよう助けることができる。常にポジティブな視点を持つことはあなたの生まれつきの性質ではない。人生の困難や苦難は、物事を、落胆させたり意気消沈させたりするもののように見せる。だから、そうした状況の中に良い面を見つけるのは難しいかもしれない。しかし、わたしの視点を求めるなら、最も困難な状況にあっても、わたしはあなたに、そこから生まれる美と勝利と良い実を示すことができる。

周囲の人たちは、あなたがポジティブな視点を持ち続けていることについて考えが甘いと思うかもしれない。しかし、覚えておいてほしいのは、わたしの知恵は、人には愚かに見える時があるということだ。[3] どんな出来事もいろいろな角度から見ることができるが、本当に正しい見方、欠けたところのない見方とは、わたしの見方だけだ。物事の実態を、あるいは可能性を見ることができるよう、わたしの助けを求めなさい。そうすれば信仰と思いの平安が増し、より明瞭な理解を得ることができるだろう。

この人生とその限りある存在は、心配や不安、恐れのことばかり考えていれば、それらに満ち溢れてしまうだろう。しかし、もしわたしを信頼し、ポジティブな視点を持つことを選ぶなら、困難の中にチャンスを見出し、ネガティブな状況の中にポジティブなものを見出せるようになる。あなたは、この世であなたに重圧をかける状況を乗り越えるための信仰を得て、人生にはより優れた計画があり、最終的に支配しているのはわたしであることを受け入れるようになるだろう。

どんな状況も境遇も、あなたを助けるわたしの手が届かないということはない。だから、窮地に陥っているなら、たとえそれが今までで一番の窮地だったとしても、いつだってわたしが関わる余地があることを覚えていなさい。わたしは決してあなたを離れず、見捨てない。ましてや、最も困難な状況にあるときにはなおさらだ。その状況のもっと先にあるものを見なさい。そして、あなたの心の中にいるわたしの臨在に信頼を寄せなさい。それはあなたを強くするだろう。

望みにあふれた逃れ場

わたしを信頼するとき、あなたはわたしを逃れ場とする。だから、わたしを信頼するというのは、あなたが何を言うかの問題ではなく、それよりも、おもにあなたの意志の問題なのだ。今日一日を過ごす中で、あなたは自分の思考の一部を含め、不安にさせるような多くのことに遭遇するだろう。

油断していると、気づかないうちに不安な気持ちが入り込んでしまうことがある。そんなときには、なぜ急に不安になったのだろうと思うかもしれない。通常はそういう感情を無視するか、あるいは、食べ物や飲み物、テレビ、ゴシップなどで気を紛らわそうとするかもしれない。心配事に支配される前に、それに気づくことができれば、どんなに良いだろう。だからわたしは、「油断するな」と言っている。

油断せず、注意深くいれば、不安が襲ってきたときにわたしを逃れ場にすることを選べる。逃れ場とは、保護や避難のための場所、つまり安全な避難所のことである。人は、助けや安心や避難場所を求めて、そこに逃げ込むことができる。

わたしはあなたの逃れ場になりたいと切に願い、常にあなたと共にいる。それでも、あなたはわたしに助けを求めることで、自分の意志を働かせなければならない。こうして、あなたはわたしを逃れ場とし、わたしへの信頼を表す。わたしを逃れ場とする者は祝福され、幸せであり、うらやまれる。[4]

信仰の報酬

わたしは、あなたがわたしや他の人への愛ゆえにしたことや、今していることの一つひとつを欠かさず記録している。わたしが気づかないものは一つもない。あなたが他の人に注ぎ出せばわたしもあなたに注ぎ入れるので、あなたはわたし以上に注ぎ出すことなどできない。わたしはあなたの愛の労苦を祝福し、報いるだろう。今はこれらの祝福と報酬のしるし、すなわち来るべきものの小さな象徴や見本を与えるが、来世にあなたを待っているものに比べれば取るに足らない。

あなたのことを考えると、わたしは喜びで満たされる。なぜなら、あなたが他の人に与える愛、心配り、気遣いが見えるからだ。愛ゆえに与え、見返りを期待しない人は、神の国において真に偉大である。

どれほど親切にしたり愛情を注いだりしても、決して無駄にはならない。助けを必要とする人の心に植えられたほんの少しの愛も、いつかは実を結ぶ。愛は、たとえ愛し返されないときでも愛し続ける。あなたが与える愛の実がいつも見えるとは限らない。中には愛しにくい人もいるが、わたしはすべてを見る。そして、愛は決して敗れることがない。

何事も愛のうちに行いなさい。そうすれば、わたしが約束した永遠の報酬を刈り取るだろう。[5]

初版は2006年10月 2020年7月に改訂・再版
朗読:ジョン・マーク 音楽:マイケル・ドーリー


1 ヘブル 4:15.

2 ヘブル 13:5; ヨハネ 14:3; ピリピ 4:13; イザヤ 40:31.

3 1コリント 1:25–29.

4 Sarah Young, Jesus Today (Thomas Nelson, 2012).

5 2コリント 9:6; 1ペテロ 5:4.

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