思い煩いに打ち勝つ

1月 25, 2021

Overcoming Anxiety
January 25, 2021

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間:10:08
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山上の説教の中で、イエスは思い煩いについて、こう語られました。「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」[1]

神が私たちの父であり、私たちを愛しておられ、私たちの体が日々必要としているものを与えてくださるのだとわかれば、神を深く信頼するようになるはずです。その信頼が、私たちの体に日々必要なものに関する思い煩いや心配を打ち消してくれます。この教えは、最初の弟子たちに力強く語りかけたことでしょう。なぜなら、彼らもイエスも、旅して回る説教師かつ教師であり、毎日の食事がどこから手に入るのか定かでなかったからです。今日のほとんどのクリスチャンは、そのような境遇にはいませんが、それでも、神が世話してくださることを信頼するという原則は、当てはまります。

ここで「思い煩う」とか「心配する」と訳されているギリシャ語の言葉は、「何かが気がかりで悩む、不安になる」という意味です。英語欽定訳では「自分の命のことを気にするな」という訳になっていますが、現代の翻訳版聖書では「思い煩うな」または「心配するな」と訳されています。ここで言われる心配とは、信仰の反対のものです。イエスがおっしゃりたいのは、父を信じなさい、父が万物の創造主であり支配者であられることや、その子どもたちに必要なものを与えてくださることを信じなさい、ということです。

イエスは、自然界からの単純な比喩を用いて、財産や収入源にではなく、神に信頼を置くべきだということを述べられました。その日に必要なものがなかったらどうしよう、また将来どうしよう、という恐れや心配について話しておられるのです。

「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」[2]

鳥はまくことも刈ることもしないと言っても、神が鳥の口の中に食べ物を入れてくださるということではありません。鳥は努力して食べ物を探します。それでも、食物を供給してくださるのは神なのです。それからイエスは、「より小さいものからより大きいものへ」という論法を用いて、おっしゃりたいことを伝えておられます。「もし神が鳥を養ってくださるなら、なおさら、鳥よりも大切な存在であるあなたを養ってくださるのではないか」というものです。神の造られた人類が、神にとっては人類以外の被造物よりも重要であるということは、創造物語に書かれていることです。人間は神の創造のわざの最後にして最高のものであり、動物を支配する権威が与えられているのです。[3] 次のように、イエスもこの点をはっきりとさせておられます。「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」[4]

自然界からの2つめの例は、野の花です。ここでもあの「より小さいものからより大きいものへ」という論法が使われています。「もし私たちの父であり、自然界の全て美しいもの、宇宙とその中の全てのものの創造主である方が、短命である花をそれほども美しく造られたのなら、なおさら神は、わたしたちのために、衣服のような体に必要なものを与えてくださるのではないか」ということです。

鳥と花の例の間に、心配しても何の役にも立たないことを示す言葉があります。「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」[5] 翻訳者によっては、身長を1キュビト(約50センチ)伸ばすと訳したり、寿命をひと時延ばすと訳したりしていますが、それはどちらに訳しても正しいからです。どちらの訳し方をしても、この質問への答えはわかりきっています。心配しても意味がない、なぜなら心配しても何も変わらないから、ということです。

心配しても何も変わらないという点を指摘した上で、イエスはこのようにたずねておられます。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」[6]

マタイの福音書では、神を信頼せずに恐れたり心配したりしている人たちに話す際、イエスが何度も「信仰の薄い者」という言い方をされています。[7] ここで言う信仰とは、神はご自身の民のためにことをなせるし、そうしてくださると信頼することです。動物を養い、地上を自然の美で装ってくださる神は私たちの父であり、私たちを愛し、必要なものを備えてくださる方であるという点をはっきりさせた上で、イエスはふたたび、「だから」(これらのことを考慮に入れれば)私たちは思い煩うことも心配することもない、と言われたのです。

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」[8]

山上の説教でこれまで2回してこられたように、ここでもまた、イエスは不信者のすることと、信者のすべきこととを比較しておられます。ここで「求める」と訳されているギリシャ語は、何かを熱心に追求する、切望することを表しています。他の人たちはこの世の物質的なものを優先するかもしれませんが、クリスチャンは、私たちには愛情深い天の父がおり、その方は私たちが思い煩ったり心配したりしなくても、私たちに必要なものをご存知であり、またそれを与えてくださるという事実に目を向けるべきです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」[9]

明日起こるかもしれない問題のことを今日心配したりせず、今日の苦労については神に信頼し、明日の苦労は神におまかせしなさいということです。毎日、その日の「苦労」というものがありますが、イエスがここで教えておられることによれば、神はその恵みによって、私たちを切り抜けさせてくださると確信できます。イエスは、私たちがこれから苦労することはないとか、私たちの人生はこれから常に順風満帆となるとは、教えておられません。そうではなく、苦労・問題に対しては、思い煩いながらではなく、父への信頼をもって立ち向かうよう求めておられるのです。

神は私たちの父であり、信者である私たちは神の子です。神の子として、私たちは神と神の義とを求めるし、私たちに必要な食べ物も飲み物も服も、父が与えてくださると確信できます。神は多くの時、基本的なもの以上に与えてくださいますが、この節で約束されているのは基本的なものです。

私たちの多くは裕福ではありませんが、そんな私たちも、お金や物質的なものについて正しい優先順位を守ることが求められています。私たちは家族を養い、経済的に安定させて彼らの必要とするものを満たすために最善を尽くし、それと同時に、自分の経済的ゴールが神との関係や神に仕えることより優先されないように気をつけるよう求められています。信者として、私たちは自分のお金を神の栄光のために用い、家族を世話し、そして他の人も助ける責任があります。物惜しみせずに、十分の一献金や寄付の形で神にお返ししたり、困っている人と経済的祝福を分け合ったりするのです。

また、イエスは決して、信者は一人たりとも食べ物や水や衣服なしに過ごすことがないとはおっしゃいませんでした。歴史を通じてクリスチャンが、飢饉のせいや監獄の中で餓死したり、何らかの理由で所有物をすべて失ってしまったことは、確かにありました。ここでイエスがお伝えになりたいのは、クリスチャンは、困難を味わう時や乏しい時が一度たりともないとか、何も問題の起こらない人生を過ごすとか、いかなる時もいかなる場所でも神が豊かに私たちに供給されることを期待できるとか、生計のために働く必要などないとかいうことではありません。ここでの教訓とは、私たちは信者として、全てのことにおいて父を信じるべきであり、心配すべきではないということです。

私たちは神の御手の内にあります。神は私たちを愛し、養い、世話し、私たちに必要なものを供給してくださいます。時には、豊かに。しかし、たとえどのような状況に陥ったとしても、「神は私たちを愛しておられるし、私たちは神の子どもであり、永遠に神とともに過ごすことになる」と理解して、完全に神を信頼することが求められているのです。

初版は2016年9月 2021年1月に改訂・再版
朗読:ルーベン・ルチェフスキー


1 マタイ 6:25.

2 マタイ 6:26–30.

3 創世記 1:26–28.

4 マタイ 10:31.

5 マタイ 6:27.

6 マタイ 6:30.

7 マタイ 8:26, 14:31, 16:8.

8 マタイ 6:31–32.

9 マタイ 6:33–34.

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