報酬

1月 14, 2019

Rewards
January 14, 2019

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 9:43
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聖書全体を通して、色々な箇所に、忠実な者にはこの人生においても来世においても、報酬(報い)が与えられるという約束が数多くあります。しかし、これらの約束の本質は何なのでしょう。また、これらの報酬の目的は何なのでしょう。今私たちが生きている人生と、将来受け取る報酬との間には、どのような関係があるのでしょう。全員がそれぞれ報酬を受け取るという保証はあるのでしょうか。これらの質問に対する答えは、神の言葉の中にあります。では、見ていきましょう。

神の裁きの座

聖書は、すべての人がそれぞれ裁かれることを語っており、救われた人も救われていない人も、生を受けたすべての人は神の御前に立って裁きを受けると告げています。使徒パウロはこのように述べました。「わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。‥‥だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」[1] 「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」[2]

信者である私たちにとっては、キリストの御前で受ける裁きは、罪に定められる(刑を申し渡される)かどうかに焦点を当てられたものではありません。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」[3]からです。私たちはイエスを救い主として受け入れており、神から見て義とされています。私たちは神に対して罪を犯していますが、イエスがその罪に対する罰を負って下さいました。それゆえに、私たちはそれらの罪ゆえに裁かれたり罪に定められたりすることがないのです。

神の家族の養子となり[4] 、ゆるされ、イエスの犠牲によって神から義とされた私たちは、この人生で自らを神から隔てることを選んだ人たちのように、神から隔てられるという経験をすることはありません。[5] それどころか、永遠に神の御前に生きるのです。しかしながら、私たちもキリストの裁きの御座の前に立つし、そこで自分たちが送った人生の言い開きをし、自分がしたことにふさわしいものを受け取ります。ですから、私たちは罪に定められてはいないものの、主の御前で言い開きをする責任を負っています。神の子どもの裁きとは、私たちの人生に対する評価として見ることができ、それを基準にして、様々なレベルの報酬が与えられるか、あるいは与えられないかが決まります。

ですから、私たちは罪に定められてはいないものの、主の御前で言い開きをする責任を負っています。神の子どもの裁きとは、私たちの人生に対する評価として見ることができ、それを基準にして、様々なレベルの報酬が与えられるか、あるいは与えられないかが決まります。私たちはそれぞれ救い主の御前に立ちます。それについてパウロは、救い主は「暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう」[6]と言いました。私たちが裁きを受ける時には、罪に定められるのではなく、私たちが受けるにふさわしいと主が思われる「ほまれ」、つまり称賛を受け取るのです。

報酬のレベル

聖書は、救われた人が受ける報酬には様々なレベルのあることや、その報酬は、イエスとの関係において私たちが生きた人生に関連していることを示しています。

なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。[7]

これは、クリスチャンの報酬はすべて同じではないことを示しています。ある人は、たとえ救われていても、その生き方が神の愛を表すものではなく、自分の人生や他の人たちの人生に実を結ぶような生き方をしてこなかったこと、そして天に宝を積んでいなかったことに気づくでしょう。ここに描かれているのは、家が火事になって持ち物が全部燃えてしまっても、自分は家から逃げ出して生き残ることができたという状況です。損失はありましたが、それと同時に、火から救われたことのありがたさも描かれているのです。

私たちがこの人生で行うことは、来世において違いをもたらします。なぜなら、私たちはそれぞれ、この体に宿っている間に「行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」[8] からです。これは、私たちが行ったわざによって裁きから救われるという意味ではありません。それができるのはイエスへの信仰だけだからです。そうではなく、報酬に関しては、救いを受け取った後にどう生きるかが考慮されるという意味なのです。キリストに対する信仰があるなら、キリストのような生き方やわざをすることが期待されています。私たちの生き方はキリストとの個人的な関係を示す指標であり、その個人的な関係が、私たちの人生、人格、決断、他の人との相互関係などにどう表れるかが、私たちの受け取る報酬に関係するのです。

イエスは言われました。「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」[9] イエスの教えを適用することによって信仰に生き、愛の内に行動し、正しい動機をもって、神の言葉に従順に行動するならば、天で報酬を受け取るようになることを教えています。

動機という要素

私たちの動機も、受け取る報酬に関係します。これは山上の垂訓で、正しいことをしても動機が間違っているなら、その人はすでに報酬を受けたことになるとイエスが指摘されたことで裏付けられています。つまり、その件についての報酬を来世で受け取ることはないとおっしゃっているようです。

報酬を、この人生で主のためにしたことに対する「支払い」として見るのではなく、主への私たちの愛や、御言葉に対する従順や、主が教えられた通りに生きたことに対する、主からの感謝のしるしと見た方が、よりふさわしいでしょう。イエスは言われました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」 [10] つまり、主を愛しているがゆえに、主の教えに沿って生きるということです。この人生でも来世でも、神が私たちにどのような報酬を与えると決められるのであれ、その報酬は、私たちが行ったことによってのみ手にするとか受けて当然であるとかいうものではありません。それは、私たちが神の愛や救いを努力によって手にするのでないのと同様です。報酬は、主への愛ゆえの生き方をしていることで与えられる祝福なのです。

最大の報酬は、御子の犠牲を通して私たちを救って下さった、創造主である愛の神との関係を持つという祝福です。そして、私たちは今、この人生でその祝福を持っているのです。信者にとって最大の祝福、最大の報酬とは、人生に主がいて下さることです。

競争ではない

天の報酬という概念は、競争や、そこから生じうるプライドとは全く無関係です。この人生で主のために懸命に働けば、他人が召使になっている一方で、自分は天国でロックスターのような地位に就くことができるというものではありません。また、自分の報酬は誰か他の人の報酬よりも少ないと感じて、嘆き悲しむこともありません。

この概念は、以下の言葉によく表わされています。

これら[報酬のレベル]は存在するかもしれませんが、天国にいる人たちは栄光を受けており、彼らの価値観は地上の価値観と全く異なるものとなります。ねたみや嫉妬はなく、称賛があるだけです。「なぜあなたの方が私よりも報酬が多いのか」という態度はなく、むしろ、「あなたがいかにして自分の内で主の力に働いていただいたかは、素晴らしいです」とか「あなたが主のために迫害に耐え抜いたのは驚くべきことです」といった態度を持つようになるでしょう。ついに天国にいるすべての人が、救いと同様に報酬もまた神の恵みであることに気づき、それにふさわしい賛美を神に捧げるのです。[11]

クリスチャンとしての私たちの人生は、神に栄光を与え、神に焦点を合わせた生き方であるべきです。そのような生き方に対して私たちが受け取る報酬は、私たちが送った人生を通して示された神への愛と従順に対する、感謝のしるしとして与えられるでしょう。主への愛や、主に従い、主に仕える方法、主の栄光のためにした行動はすべて、天国で受け取る報酬や、何らかの面でこの人生で受け取る報酬に関係してきます。私たちの目的は報酬ではありません。神を愛し、神のために生きることが目的です。私たちに対する最大の報酬とは神ご自身であるのだと理解する時、私たちは最善を行うことができます。

初版は2014年8月 2019年1月に改訂・再版
朗読:ガブリエル・ガルシア・ヴァルディヴィエソ


1 ローマ 14:10,12.

2 2 コリント 5:10.

3 ローマ 8:1.

4 ガラテヤ 4:4–7.

5 James Leo Garrett Jr., Systematic Theology, Biblical, Historical, and Evangelical, Vol. 1 (N. Richland Hills: BIBAL Press, 2000), 858.

6 1 コリント 4:5.

7 1 コリント 3:11–15.

8 2 コリント 5:10 NIV.

9 マタイ 6:20–21.

10 ヨハネ 14:15.

11 T. D. Alexander and B. S. Rosner, eds., in New Dictionary of Biblical Theology (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2000).

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