神の御霊の追求

4月 16, 2018

In Pursuit of God’s Spirit
April 16, 2018

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 9:40
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「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」
ヨハネ 4:24

私たちの内にある神の御霊は、私たちに力を与え、また私たちを変え、変貌させ、改善し、動機づけます。そして、他の人たちを愛することであれ、証しすること、教えること、宣べ伝えること、語ること、何かを創り出すことであれ、神の御心を行うよう私たちを動かします。聖霊は私たちの内に宿る神の生きた存在です。私たちの良心を導き、神の真理に沿って生きるための力を与えてくれるのは、聖霊が持つ、私たちを変える力なのです。

神の御霊は神の言葉を通して私たちに語りかけます。第一に聖書を通してであり、また、他の人々の書物や言葉や預言を通して語りかけます。御言葉は、聖霊が私たちの心に働きかける下地を準備し、心と思いと霊とが御霊の影響に対して開かれるようにします。

私たちは、自分たちの行動が愛と誠実さによって動機づけられるように、神が私たちの心の中に置かれた道徳律に従わなければと感じています。他の事柄とも同様、人がその人生において御霊が与える確信にどう反応するかは、その人の選択と信仰の問題ですが、心と人生において御霊の動きに対して開かれた姿勢を持ち、柔軟でいるよう自分の分を果たすことは大切です。

神に導いていただくことや、神の導きを見いだして従うことにおいて鍵となる要素は、御言葉に根ざすことです。そのためには、神の言葉の真理を知り、理解できるよう励むべきであり、聖書は神が人類に対してご自分を現しなさったものなのです。神の言葉を理解することによって、私たちは、自分たちのための神のご計画を見出します。

次のステップは、毎日の生活において、神の恵みにより全力を尽くしてその真理に生きることです。真理に生きるには、その真理を理解する必要があります。理解するには、それを追求しなければなりません。つまり、その努力をし、そのために時間を費やすということです。

イエスは、神のいましめの内、最も大切なものはどれですかとたずねられた時、心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして神を愛することだと言われました。イエスは、はっきりと「思い」という言葉を使われました。[1] 神の言葉を知り、理解したいと願うには、思いを働かせなければなりません。ただ読むでけではなく、学び、調べ、理解を増すためにも、時間を取る必要があります。神の神性を理解することによって神がどのような方かを理解するなら、神への愛が増し、神の力や愛、知恵への畏敬の念が増します。神をよりよく知ることで、神により近くなるのです。

有名な映画「十戒」を制作したセシル・B・デミル(1881–1959)の言葉:「私は60年以上ほとんど毎日聖書を読んでいるが、それがいつでも新しく、毎日変わりゆく必要に驚くほど合ったものであることに気づかされる。」

もちろん、聖書だけ読んでいればいいというのではありませんが、聖書は、何度も何度も読んで瞑想し、学習し、吸収すべき書物です。何しろ、それは神がご自身のことについて告げられたことを記している書物なのですから。そこには私たちへの神の言葉が書かれており、今生きているこの人生への答えや、来世についての情報が含まれています。それは神とどう接するべきか、いかにしてもっと神に似たものとなれるかを教えてくれます。そして何よりも、それはいかにして神との関係を始め、人生に神を受け入れ、主とつながれるかを私たちに告げています。

神の言葉を読み、信じ、吸収することは、私たちを大きく変えます。D・L・ムーディー(1837–1899)がこう語ったとおりです。「聖書が与えられたのは知識を増すためではなく、私たちの人生を変えるためである。」

チャールズ・コルソン(1931–2012)の言葉:「禁じられ、焼かれ、愛された聖書は、歴史上のどの書物よりも広く読まれ、最も頻繁に攻撃されている。知識人たちは何世代にも渡って聖書の信用を落とそうと試み、諸時代の独裁者たちは聖書を違法とし、それを読む者を処刑して来た。それでも、聖書は武器よりも力強いと信じる兵士たちが、聖書を持って戦場に行く。独房にこっそり持ち込まれた聖書の切れ端が、冷酷な殺人者たちを心優しい聖人に変えてきた。」

皆さんもご存知かもしれませんが、チャールズ・コルソンは、ニクソン米元大統領の特別補佐官でした。彼はニクソン政権で初めてウォーターゲート事件関連で有罪になって投獄され、連邦刑務所に7ヶ月間服役した人物です。コルソンが逮捕されようとしていた時、親しい友が彼にC・S・ルイスの「キリスト教の精髄」をあげたのですが、彼はそれを読んで、クリスチャンになりました。人生が永遠に変わったのです。

私たちの人生は、神の御言葉を吸収することでより良いものとなります。御言葉を読み学習することには努力が要りますが、そうするなら私たちはもっと強く神と御霊につながることができます。普段から御言葉を読むことに時間を費やす努力をし、必要な時間と労力をつぎ込むよう自分をしつけ、それを進んで追求するなら、私たちは主の内に豊かに宿るようになることでしょう。御言葉の時間を過ごすことは、主と時間を過ごすことです。

ある著者が、こんなことを言っていました。私たちは聖書の言葉を「読む義務」はないと。私たちは聖書の言葉を「読みたい」のです。聖書の言葉を「読める」という特権があるのです。誰も私に「あなたは奥さんにキスする義務がある」とは言えません。そうではなく、私は妻を愛しているから、妻にキスできるし、キスしたいというわけです。[2]

神に対して情熱を抱き、神を愛し、進んで御霊を追求するなら、神についてできる限り多くのことを知りたいものです。私たちは神から聞き、神に従います。そして、そのための主要な方法の一つが、御言葉を読むことに時間を費やすことなのです。単に、神とその神性についての知識を増すために学習するのではありません。それは、神をもっと良く知りたいから、もっと愛したいから、神に私たちの人生に係わっていただきたいからです。私たちは神の導きを願い、神の声を聞くことや、神が導かれる所について行くことを願います。

神は様々な方法で私たちに語りかけます。そして、耳を傾けるなら、私たちは神の声を聞くことができます。御言葉について黙想し、読んだものを毎日の生活にどう当てはめるかを示して下さいと神にお願いする時、私たちは御言葉に耳を傾けています。また、静まって、神に語っていただくための機会をつくる時、私たちは耳を傾けています。これにも努力が必要です。神の声に心を開き、神が私たちに語られたいことが何であれ、それに対して備えるのですから。そしてそれは、神が私たちの思いを通してもたらす思考かもしれないし、預言による神の声、書かれた御言葉、他のクリスチャンを通して私たちに語る言葉かもしれません。肝心なのは、心を開き、霊を静め、耳を傾け、聞き入ることです。

神が私たち個人個人にお語りになりたいというのは、栄誉なことです。そして、神から聞くための時間を取っておくなら、預言であれ、静かな小さい声であれ、御言葉の声を通してであれ、神は語りかけて下さるでしょう。聖書は私たちに神の全体的な御心を示しますが、個人個人のための具体的な御心は示しません。神は、私たち一人ひとりが神の導きを求め、全体的な御心を私たちの実生活にどう具体的に当てはめるかをたずね求めるよう、期待しておられます。

神は私たちの生涯のパートナーです。神は私たちの人生に積極的に関わりたいのです。神は私たちを導き、良い決断を下すのを助けたいのです。神に従うということは、神が私たちの人生に影響を与えることを許すということです。それは、意識的に神の導きを求め、神が示されることを行うということです。神と会話することであり、ごく親しい人たちとするように神に語りかけ、神の静かで小さな声に耳を傾けるということです。

神は私たちを愛しておられます。神は私たちの味方であり、私たちは神を信頼することができます。そうするなら、神は私たちを失望させられません。私たちを導いてくださいます。私たちが神の御霊を追求し、御言葉や神の声に耳を傾けることで神とつながる努力をし、神に従う時、私たちは神を中心とし、神に満たされ、神に導かれた、愛と喜びと大いなる充実感に満ちた人生を生きるようになるのです。

初版は2013年9月 2018年4月に抜粋、再版
朗読:ルーベン・ルチェフスキー


1 マルコ 12:30.

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