旧約聖書における聖霊の記述

8月 28, 2017

The Holy Spirit in the
Old Testament
August 28, 2017

ピーター・アムステルダム

オーディオ所要時間: 8:27
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旧約聖書では、ひとつの神のうちに三つの位格、つまり父と子と聖霊とがあることは、まだ啓示されていませんでした。それはイエスの宣教、死、復活や昇天、そしてペンテコステの日の聖霊降臨などがあった時やその後になってから、啓示され始めたことです。旧約聖書の著者たちは三位一体の概念を理解しておらず、聖霊が三位一体の神の一位格であることも知りませんでしたが、それでも「主の霊」や「神の霊」について書き残しています。そのように、御霊を神の一部として、また神の力や働きとして見ていたのです。[1]

旧約聖書において、神の霊は所有格を用いて記述されることがあります。たとえば、「わが霊」、「あなたの御霊(みたま)」、「あなたの聖なる霊」、「その[神の、という意味で]霊」、「その聖なる霊」などであり、ここにも、旧約聖書の著者たちが神の霊を神の一部として捉えていたことが表れています。「わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。」[2] 「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。」[3]

神の霊が、世界の創造に関わっていたことや、生物に命を与えることが、書かれています。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。その霊をもって天を飾り…。神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたしを生かす。」[4]

神の霊の働きとあらわれ

創造に関わった以外にも、神の霊が働いておられることは旧約聖書の随所で見られます。モーセがイスラエルの民を荒野で40年間導いていたとき、神の霊はモーセの上にありました。そして、民を導くという重荷がモーセにとって大変過ぎるものとなったとき、神はその霊を70人の長老の上にも置かれました。[5] ヨシュアには御霊が宿っていると言われたのです。他にも、ヨシュアの死後に民を導くようになった士師と呼ばれる人たちに、神の霊が臨んでいます。[6] これらの場合、主の霊が特定のときに人々に下っています。

士師時代が終わり、イスラエルでは王による統治が始まりました。サウルとダビデという最初の二人の王に御霊が下ったことが、聖書に記されています。サムエルがサウルを塗油してイスラエルの王としたとき、それからサウルに起こるであろういくつかのことを告げていますが、それが起こったときに神の霊がサウルに下ると言いました。実際にサムエルが言ったとおりのことが起こり、そのとき(また他のときにも)、神の霊がサウルに下りました。[7] サウロの場合は彼の不従順ふえに、のちに神の御霊は彼から離れていきました。[8]

ダビデは王になる何年も前に、御霊が与えられました。「サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。」[9]

旧約聖書において、神の霊は預言との関わりにおいても述べられています。「主は雲のうちにあって下り、モーセと語られ、モーセの上にある霊を、その七十人の長老たちにも分け与えられた。その霊が彼らの上にとどまった時、彼らは預言した。」[10]

契約の箱や幕屋契約の箱や幕屋(契約の箱を置いたテント)、祭壇、祭服、また幕屋の中で犠牲を捧げるときに使用される様々な器などの作成についてモーセに指示をお与えになる際、神は、神の霊に満たされていて、能力や知恵、知識、技能を授けられた特定の職人のことをモーセに告げられました。、祭壇、祭服、また幕屋の中で犠牲を捧げるときに使用される様々な器などの作成についてモーセに指示をお与えになる際、神は、神の霊に満たされていて、能力や知恵、知識、技能を授けられた特定の職人のことをモーセに告げられました。「主はモーセに言われた、「見よ、わたしは…ベザレルを名ざして召し、これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、‥‥」[11]

神の霊は、旧約時代の預言者たちにも下っています。ペテロの第2の手紙には、『聖書』(旧約聖書のこと)にある預言について、預言者は聖霊に感じた(動かされた)と書いてあります。「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」[12]

旧約聖書において、神の霊が様々な方法で活発に働いておられたのは明らかです。さて、御霊がだれかに下り、その人に力を与えるのは、特定の場合だけであり、期間が限定されていたようです。J・ロッドマン・ウィリアムズは、次のように説明しています。「御霊は衣服のように人を「おおう」ことができましたが、衣服と同様、いつまでも身につける祭服のようなものではありませんでした。御霊を授けられるのは一時的なことだったのです。特定の場合、特定の任務、特定の発言の間です。いつまでもそこにあるというものではありませんでした。」[13]

新約聖書とペンテコステ

「その後わたしはわが霊を/すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。 その日わたしはまた/わが霊をしもべ、はしために注ぐ。—ヨエル 2:28–29

ただし、神は将来のある時に(今ではそれがペンテコステのことだったとわかります)神の霊が神の民のうちに宿ること、また、それが起こるのは民の何人かだけではなく、女性もしもべも含んだすべての人であることを語っておられました。女性もしもべもというのは、その当時、その文化にあって、すべての人のことを言っているということをはっきりさせるための強い表現でした。旧約聖書の最後の方に書かれた書からイエスの誕生直前までの400年の期間、神の霊が動かれたしるしがほとんど残されていません。とくに、神から直接与えられた導きや預言についてはそうです。しかし、新約聖書時代が明けて、神の御子イエスの誕生に関わる神の民の間で、聖霊がふたたび動き、働かれたのです。バプテスマのヨハネの親であるエリサベツとザカリヤは御霊に満たされました。[14]その息子ヨハネは、母親の胎内で御霊に満たされました。[15] 聖霊はマリヤに臨み、彼女をおおってイエスを身ごもらせました。[16]

神の霊のあらわれは旧約聖書の至るところに書かれていますが、イエスの生涯と宣教のうちに、またペンテコステで聖霊が送られたことに、聖霊の力と塗油が広くだれにでも与えられるところを見ることができるのです。

初版は2013年4月 2017年8月に改訂・再版
朗読:ガブリエル・ガルシア・ヴァルディヴィエソ


1 サムエル上 10:10; 16:13を参照. 聖書の言葉は、特に明記されていない場合、日本聖書協会の口語訳聖書から引用されています。

2 詩篇 51:11.

3 詩篇 139:7.

4 創世記 1:2; ヨブ 26:13.[新欽定訳聖書(英語)より]; ヨブ 33:4.

5 民数 11:16–17.

6 士師 3:9–10, 6:34; 11:29.

7 サムエル上 10:6, 10.

8 サムエル上 16:14.

9 サムエル上 16:13 NKJV.

10 民数 11:25.

11 出エジプト 31:1–6.

12 2 ペテロ 1:20–21.

13 J. Rodman Williams, Renewal Theology, Systematic Theology from a Charismatic Perspective, Volume 2 (Grand Rapids: Zondervan, 1996), 160.

14 ルカ 1:41–42, 67.

15 ルカ 1:14–15.

16 ルカ 1:31, 34–35.

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