セルフコントロールと誘惑を避けること(パート1)

5月 4, 2017

Self-Control and Avoiding Temptation—Part 1
May 4, 2017

「ロードマップ」シリーズより

オーディオ所要時間: 13:17
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「きらめくものすべてが金とは限らない」という言い回しを聞いたことがありますか? さて、私たちの人生に入り込む誘惑の多くもそうです。中には一見して素敵で、魅力的に見えるものもありますが、場当たり的に判断すると間違いを犯しかねません。たとえば、楽しみたいという願いに、「何でもあり」的な思慮に欠けた態度が伴い、それらが組み合わさると、危険で深刻な結果が生じ得るのです。

悪魔は私たちが判断力を失い、決断を急ぎ、バランスを崩して、その結果不摂生や深酒に走るか、あるいは感情を爆発させて、その悪影響を被るよう、あの手この手でつまずかせようとします。しかし、神の御言葉や歴史や、私たち自身の経験からもわかるように、もし幸せでバランスの取れた、平穏で生産的な人生を送るつもりであれば、セルフコントロールや節度は重要です。

聖書は私たちに、「あなたがたの節度を、みんなの人に示しなさい」と教えています。また節制(口語訳「自制」)は、ガラテヤ人への手紙の中で挙げられている御霊の実の一つであり、節制とセルフコントロールは同義語です。[1]

セルフコントロールとは、とりわけ反応や衝動といった面で、自分の振る舞いを制御する能力です。節制とは、誘惑や欲望に面した時に、自分を抑制することです。また節制は、万事において節度を保つことにも関係しています。—ピーター・アムステルダム

私たちクリスチャンは、自分のテスティモニーを傷つけ、証しを損ない、自分の見本や評判を貶めて、ミッションを遂行する妨げになるような事柄に対して、用心していなければなりません。時として、聖書の教えに沿わないちょっとした放縦や節度に欠けた行為は、それほど大したことではないように見え、私たちはそれを、ほんの小さなことだと考えてしまいがちです。しかし小さな行為も、深刻な影響を及ぼし得るため、自分の行動を、私たちの人生の指標であるクリスチャン的価値観という基準によって判断することが大切です。目標は、能力の限りを尽くして主の御心を行い、正しい選択を下すことです。正しく生き、私たちの主要理念に沿って行動し、選択を下すのです。

私たちクリスチャンが神と活発に関わっているなら、取り乱したり、何かに耽溺しそうになっても、神の御霊が忠実に良心に語りかけてくださると期待できます。けれども、絶えず御霊の勧告に抵抗しているなら、まもなく主の声がはっきり聞こえなくなってしまうでしょう。

主の御霊の導きを無視すればするほど、人はいともた易く、あのつるつるとした不従順の小道を滑り落ちて行きます。だから、たとえ小さいことであっても、必要な時に抑制力を働かせるのを怠ることは、深刻なことなのです。

現代社会には、以下のような日常的な誘惑が無数にあり、これらに抵抗しないなら、罪を犯すようになります。

以上に挙げたのは、非常に明らかな誘惑の数例に過ぎません。

言うまでもなく、最初からその方向に進むことを避けて、これらの誘惑によって生じる問題を回避する方が、ずっと簡単で安全です。敵である悪魔は、私たちの人生を滅茶苦茶にしたがっているのですから、このことを真剣に受け止め、誤った決断によって急な坂道を転がり落ちることのないよう、自分を守るのが最善です。あの有名なことわざのように。「崖の下に病院を建てるより、崖の上に柵を設ける方がいい。」 その「柵」とはセルフコントロールであり、それが頑丈な柵になるか脆弱な柵になるかは、私たち一人一人の下す決断にかかっているのです。

セルフコントロール能力を強化するには、以下のような方法があります。

もちろん、誘惑という試練に会わずにすむ人は誰もいません。聖書にはこうあります。「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」[2]

「のがれる道」にあずかる方法の一つとは、主との結びつきを強く保つことです。そうすれば、不従順によって神の保護領域の外へと踏み出すことに関して、健全な恐れを抱くことでしょう。また、主とつながっていることの結果として、自分の価値観やクリスチャン的倫理観に照らしつつ、確信をもって自分の行動を判断することができるでしょう。

自分が何をし、何をしないかを決めるのは私たち自身であり、それらの決断によって生じる結果の影響を被るのも、私たち自身です。中には生まれつき向こう見ずで、やたらと危険を冒す人たちもいますが、その危険が理にかなったもので、適度に抑制をきかせて主に導きや知恵を求めているなら、安全な小道に留まって、その行程で学ぶことができるでしょう。たとえここそこで失敗を犯しても、主への恐れの内に歩み、祈り深く決断を下すなら、主が私たちの人生にもたらされるか、起こるのを許されることは、現世においてか来世においてか、何らかの形で私たちの益となると信頼することができます。

以下はバランスの取れた安全で生産的な人生を送るために役立つ、セルフコントロールの一般的原則です。これらに従うなら、正しく安全な決断を下すことができるでしょう。

霊的な面では

実際面における秘訣としては

誘惑に抵抗するのは、主の助けがない限り、思っているほど生易しいものではありません。ケロッグ経営大学院とアムステルダム大学は、以下のような結論を出しています。「人は実際に持っているよりも多くの抑制力が自分にあると信じており、それが最終的にはお粗末な決断へとつながります。‥‥研究によると、[被験者たちは]‥‥自分が実際に扱える誘惑の量を見誤ったため、その結果衝動的な耽溺や中毒的な振る舞いに走る傾向が高まりました。‥‥鍵は単に、どんな悪徳やその他の弱さがはびこっている場所にも近づかないことであり、とりわけ肝心なのは、一人一人が自分の意志力を控えめに見積もることです。」[3]

人生の誘惑は回避するのが難しすぎると反論したくなるかもしれません。この主題に関して、以下に挙げた幾つかの点について考えてみましょう。

誰かが[かつて]言いました。人生の誘惑はあまりに大きすぎると! さて、誰にとってでしょう? もちろんそれは、あなたにとっては大きすぎるのです! しかし神にとってはそうではなく、神はあなたが力を必要としている時に、それを与えたいと願っておられます。誰かが誘惑に抵抗できるとしたら、それは唯一、神の助けを借りた場合だけです。あなたは決して、一人でそれに抗うよう定められているわけではありません。だからこそ、神とつながっている必要があるのです! 独力で勝利することなどできないのですから!—バージニア・ブラント・バーグ

誘惑とは、すべきではないと本能的に自覚していることをする機会に遭遇した時に、私たちが味わう感情です。—スティーブ・マラボリ

誘惑とは、鍵穴を覗く悪魔のようなもの。それに屈するのは、まるでドアを開けて奴を招き入れるようなものです。—ビリー・サンデー

私たちは誘惑を受けると聞くと、窃盗や殺人や姦淫といった大変なことを犯す気持ちに駆られることであると考えてしまいがちです。しかし大抵は、忍耐を切らしたり、出し惜しみをしたり、嫉妬したり、欲張ったりといった、私たちがより軽い罪であると考えているものによって、誘惑を受けることが多いのです。—ジョイス・マイヤー

誘惑に駆られていることに気づいたなら、クリスチャンは神に支えて頂くよう祈るべきです。そして誘惑を受けても、気落ちしてはいけません。誘惑を受けることは罪ではないのですから。罪とは、誘惑に屈してしまうことです。—D・L・ムーディー

誘惑に打ち勝つたびに、新たな倫理的活力が生じます。正しい霊の内に耐え忍び乗り越えた一つ一つの試練が、魂を以前にも増して気高く強靭なものにしてくれるのです。—ウィリアム・バトラー・イェイツ

誘惑も、自分の弱さを暴露し、全能の救い主へと駆り立ててくれるなら、人にとって祝福にさえなるかもしれません。愛する神の子よ、地上の人生の旅路において、一歩ごとに誘惑に遭い、もう耐え切れないと感じても、驚いてはいけません。人は耐え切れないような誘惑に遭うことはなく、誘惑に遭うたびに、逃れる道が備えられているのですから。—F・B・メイヤー

「ロードマップ」は若い大人向けにTFIによって制作されたビデオ・シリーズ。初版は2010年。2017年5月に改訂の上、アンカーに掲載。
朗読:サイモン・ピーターソン。


1 ピリピ 4:5〈英語欽定訳より〉; ガラテヤ 5:22–23.

2 1 コリント 10:13.

3 LifeSiteNews.com より

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