鳥肌が立つような瞬間

1月 27, 2016

Goosebumps Moments
January 27, 2016

イレーナ・ザビッコワ

今日私は、神が舞台裏でなされた、目に見えないながらも忠実な御わざの、ささやかなしるしを体験しました。このように、神が働きかけておられるとはっきりわかるような「超自然的」な瞬間は、私にはそう頻繁には訪れません。だからこそ、ある超常的な出来事を通して、神があらゆる詳細に配慮しつつ、私の人生を意義深く理にかなったものにしようと働きかけておられるのを目にすることができた時に、嬉しく感じたのです。それによって信仰が強められただけではなく、他の人々に愛と思いやりを示す手本となり、彼らに救いのご計画を分け合うことを通して、神を反映する者になる必要性という面でも、改めて意欲を駆り立てられました。

去年夫と私は、自宅から400キロほど離れた地域を旅していた時に、数人の友人たちとチームを組んで、ジョルジオという障害のある男性が、北イタリアの山を登る手助けをしました。そのために、介助者が二人で支え、操るようにできている、ジョエレットという一輪の車椅子を使わせてもらいました。[1] それに80キロ分の人と荷物を乗せて、奮闘しつつ岩だらけの山道を登るのは、容易なことではありませんが、皆で協力すれば楽になるもので、やがて数時間後には頂上にたどり着きました。

天気も良く、そこの景色は息を呑むほど素晴らしいものでした。ジョルジオを毛布の上に座らせてあげると、生まれて初めて自分の住む町を見下ろして、目に涙を浮かべていました。それまでの生涯ずっと、この山が自分の町の上に立ちはだかる巨人のように見え、あの頂上に登ったらどんな気持ちがするのだろうと、考えていたそうです。それが今はそこにいて、自分の人生を、まるで別の視点から見ていたのです。彼は友情と愛情に包まれて、深く感動していました。

その日山上にいたのは、私たちだけではありません。途中で何十人もの人に出会い、その多くが、珍しいものを運んでいる私たちの一団に、勇敢だねとか大した決意だとか、何かしら声をかけてくれました。私たち夫婦は、この企画に協力できて、本当によかったと思いました。友人たちと共にこの特別な時間の一瞬一瞬を楽しみ、また周りで見ている人たちが、私たちの取り組みによって、何らかの形で触発されてくれることを願いました。そしてその願いを祈りに変え、一人一人の心に働きかけて下さるよう、神に求めたのです。

それから一年後に話は飛び、場所はイタリアからクロアチアに移ります。友人になって間もないイタリアからの二組の家族が、週末に私たちのボランティアセンターを訪れ、片田舎の村に住むある年配の未亡人のために、薪を割る手助けをしてくれました。それは隣人愛に満ちた週末で、神の御霊によって触れられた人の心の優しさが、はっきりと実感できるような経験でした。この人たちが、貧しく無力な女性が冬を暖かく過ごせるよう、そんなにも遠くから来てくれたということに、本当に心温まりました。

彼らがそこを発つ前の最後の夕食の席で、障害のある人を山に連れて行くという話題が出ました。片方の夫婦が、ハイキング中にジョエレットを見かけたことや、それがどんなに役立つ器材であるかについて話し始めたのです。障害を持った人を山の上に連れて行く一団を見かけたが、その人は頂上に着いた時に、本当に喜んでいたと。「その人を連れて岩だらけの道を登るのは、きっと大変だったことでしょう。けれどもそれは彼にとって、実に価値あることだったのです。」 彼らはそう話を締めくくりました。

私たちは彼らに、自分たちが一年前、それと同じことをしたことがあると話しました。「本当ですか? それは私たちがその光景を見たのと同じ山ですよ!」 急いで写真を探し、日付を比べてみると、自分たちが実際に同じ時に、同じ場所にいたことが判明しました。知り合いになる前から、私たちはすでに出会っていたのであり、この夫婦はその時見た光景に感銘を受け、自分たちも他の人のために、何かしたいと願うようになったというのです。私たちは山頂で言葉を交わさなかったし、そこで彼らを見たことを覚えてすらいませんでしたが、1年という年月と、幾つかの奇跡の後に、彼らは私たちの傍らで、貧しい未亡人のために薪を割っていたというわけです。

偶然ですって? 私に言わせれば、神のタイミングです。イタリアのその地域には、高い山々や大きな町が沢山あります。私たちの将来の友人が、同じ日に同じ山に登ろうと決める確立は、一体どのくらいでしょう? そう考えると、ぞくぞくして鳥肌が立つ思いでした。主がその御計画と御わざを、目に見える形で明らかにして下さったことが、はっきりとわかったのです。神は、私たちよりも広いご自分の展望がどれだけ素晴らしいかを示す一例を見せておられました。そしてご自分の視点から見た人生を、私たちにかいま見させて下さったのです。まるでタペストリーを織りながら、ちらっと布地を表に返して、裏側のごちゃごちゃに絡まり合った糸ではなく、自分が織っている本当の模様を見せてくれるはた織り職人のように。

このことについて祈り、考えていた時、自分たちが全体像を見て物事の関連性に気づき、人生で起こる様々な出来事がいかに重要であったかを理解するようになる天国では、鳥肌の立つような経験がいかにたくさんあることだろうと考えました。自分たちが知らず知らずのうちに他の人々に及ぼしていた影響に、気づくことでしょう。前向きな励ましの言葉や、誰かを救いに導いた経験の一つ一つが、その瞬間ばかりか、長期的な意味でも、どれだけ重要であったかに。私はどんな形であれ、できる限りのことをして、自分の光を輝かせることの必要性を、強く確信しました。神が私たちの人生に誰を送っておられるのか、まるでわからないからです。

また、ハイキングで出会った人々のために祈って、彼らの心に働かれるよう主に祈った時、これらの祈りが彼らの人生において、答えられていたのだとわかりました。この場合、神はこの夫婦の心に働きかけられ、やがて彼らが私たちと出会って、それが過去に起きたこととどんな関係があったのかを明らかにするよう、導いて下さいました。彼らと出会ったきっかけは、奥さんの方がハイキングの数ヵ月後に新しい美容院に行き、そこで「成功への鍵」のカレンダーを見かけたことです。彼女はそこに書かれた言葉の幾つかを読み、とても気に入ったので、カレンダーに書かれていた私たちの番号に電話してくれたのです。後に彼女は、ファミリーのクリスマスショーで私たちと会い、翌年の夏に、あるボランティアキャンプに夫婦で参加してくれました。3度目に会ってようやく、彼らとすでに山で出会っていたことに気づいたのでした。

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」[2] 神は御言葉の中で、保護や供給についてや、ご自分が私たちを導き、共に人生を歩んで下さることに至るまで、多くの約束を与えておられます。私には神の御わざの詳細を見ることができないので、大抵の場合、信仰によってそれを受け入れなければなりません。神が必ず御わざを行って下さると、ただ信頼するのです。けれども、神がご自分の聖なる御計画や舞台裏での御わざをかいま見せて下さる瞬間には、そのことをありがたく思います。神はその愛と優しさゆえに、私がここそこで幾らかの「目に見えるしるし」を見ることを許して下さり、そのおかげで私は、より新鮮かつ深遠な形で、神とつながることができるのです。


2 2 コリント 5:7.

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